昭和五十六年五月十日 朝の御理解
御理解第五十九節「習うた事を忘れて戻しても、師匠がどれだけ得をしたという事はない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えばそれで師匠もよろこぶ。おかげを落としては神は喜ばぬ。おかげを受けて呉れれば神も喜び、金光大神も喜び氏子も喜びじゃ。」
日々ここではとりわけ朝の御祈念にはみ教えの、言わば勉強をさせて頂いておるのです。今日の御理解の頂き所、そんなふうに思い、そしてそれを考え、そしてそれを生活の中に頂いていくという日々の云うなら信心の積み上げという事はそういう事だと思うですけれども、どうでしょうか。帰って食事をなさる時でも、今日の御理解のシン所というようなものを家族の者にでも話してやれれるだけにまとまっておるだろうか。朝お参りをする。私は思うのですけれども、これは何十年間こうやって朝の御祈念の後の御理解を続けております。けども一ぺんだって同じという御教えはないです。そりゃ表現は同じですけれどもその言わんとする所、神様今日ここを分かって呉れと仰せられてある所は違うです。という程しに教祖の御教えというものは深いもんです。だからせめて例えば塗板に提示してありますね。写していけんならもう一ぺん読み直しては、はあこう云う頂き方、こりゃこの何十人かの修行生の方たちが毎日一時間づつ朝の御理解を検討して、しかも検討した上にも検討してその中で一番まあ、云うならばよいまとめをしてある。云うなら頂き所が解明してあるわけですから、どうでしょうか。帰りがけにでも昨日の御理解が書いてあるのですから、心の中にまとまっていきよるでしょうか。もうのっけから、云うなら朝参りの始から頂いた事はそれこそ一つも残っとらんね。習うた事を覚えておいてそれが信心の血になり肉になって、かくもおかげを頂いたとその焦点はお互いがおかげを受けて合楽世界に住む事。その合楽世界に住む事が、今日のここの御理解にありますように神も喜び金光大神も喜び氏子もの喜びということになるんですね。
だから教祖の御教えをね、そういうふうに頂いて、例えば頂き所を一行でもええ二行でもええけん今日はここをいっちょ守らせてもらおうといったようなものをね、私は頂いて帰らなければ今日の御理解は反故になるんです。
毎日頂いとるばあっかり、これだけ教えたつにまあだそげん所が分からんのち言うごたるところになってくるわけ。神もがっかり、金光大神もがっかり。皆さんも大したおかげはそれじゃ受けられんという事になるね。私は本気でその頂く姿勢というものをね、作らなければならない。
昨日、福岡から或るやっぱり難儀な問題でお参りをされる方がありますが、こういう難儀な中に教えを頂いて自分の心がね、くよくよしなくなった。まあ云うなら、心が助かっていきよる。それをだんだん思わせて頂いとりましたら、このようにあの先祖の御霊様達も助かっていかれたら有り難い事だろうなあと思わせて頂いとったら今日はほんにおじいさんの立ち日だったとまあ車ん中で気付かせて頂いたというのです。
まあ毎日お参りにはなりませんけれども、ときおりでも頂くその御理解が自分の心を助ける、自分の心を救うてくれる。この助かりがこのような助かりがご先祖の御霊様達もこのように楽になって下さったら有り難いだろうなあ、別にその霊様の事のお初穂をしてあるわけでもないけれども、私はあのまあ、おじいさんの立ち日であると気付かせて頂いて、おじいさんも助かってもらったなら、私が助かっておると同様に助かったならと思うというお届けであったから、私はすぐ玉串を作らせましてね、そして玉串上げてもらいました。どうでしょうか。教えを頂かなきゃ心が助からんです。だから本当にこのこういう中にあってもこういう信心の喜びとか助かりがあるんだから、隣の人にも助かってもらったらどんなに素晴らしい事であろうかと思います。
隣の人が祈れれる思えれる、私はそれこそ神も喜び金光大神も喜んで下さるだろうなあと思うですね。今日のみ教えのここん所が始めて頂いたここん所がどうでも血肉にんならなならんところぞと、帰って話が出来たら、それこそ神も喜び金光大神も喜んで下さるという事になるのじゃないでしょうか。
皆さん出来るならば毎日御理解の研修がもう一ペンなら御理解を頂くいう事は出来なくても、ならあそこに簡単にまとめてあるだけ位は一つ読んで云って、その中のはあ成る程素晴らしいまとめがしてあるなあという所だけでも良いから話に材料になる材料を自分の心に頂いて自分も勿論助かり、それを人に伝えていけれるそういう信心を、云うなら神も助かり氏子も立ち行くというね。ぎりぎりの所は、お互いそのようにして日々合楽理念の実験実証によっていうなら、神も喜び金光大神も喜んで下さる、云うなら各々もおかげを受けて有り難いという、いわゆる合楽世界に住む事のおかげを目指して信心の稽古をしなけりゃならんけれども、日々の稽古がただ無駄になっていったおる、流れてしまっておる、自分の血に肉に一つもなっていないとするならば今日の御理解に云うなら反する事になる。もう兎に角、朝皆さんがこうやって朝の御祈念に出て来られるという事は大変な事ですね。大体は、私は最近特にですけれども風呂上がった後が大変けだるいというですかね、大変きついんです。もう御飯も食べたくない位にあのうきついです。それがやっぱ夜中まで続くです。ところがね、云うなら朝起きる前頃から何かこう精気が湧くんです。朝一番にあちらの私の、にお祭りしておるお神様の前に出る時にはもう本当に今日も精気いっぱいでね、生き生きとして今からお広前へ向かわれるというと、第一番にお礼ば申し上げる程生き生きとしてくるです。心が。おかげを頂いておるしるしだなあというふうに思うんですけど、そういう生き生きとしたお参りが出来てはじめて生き生きとして教えを頂く構えが出来る。
昨日、今言う方のお届けをさせて頂きよりましたら、あの次という字、次ぐという字を頂いたんです。次ぐとはどういう事じゃろうかと思いよったら、その下に女という字を頂いた。だからははあこの人達が本当の信心を頂いていく事になるんだなあ、そして次の例えば婦人会なら合楽婦人会あたりのお役になる人達になるんだなあ、次の女と書いて姿と読むでしょうね。次の女と書いて姿、姿勢です、いわゆる神様へ向かう姿勢です。姿勢が大事だなあというような事をまあ思ったんですけどね。ただもう何十年参るばあっかりで一つもまあ合楽理念と例えば聞いても、ほんろくそ説明も出来ない位な事では、神も喜び金光大神も喜びという事にはならない。勿論自分も喜びいっぱいのお参りも生活も出来ない。今日の御理解の云うならば、反故にするような事のない、例えば今日一日でも今日の御理解のここが素晴らしかったと家族中の者で共励し合えて、今日はこれでいくぞというような在り方になったらその事自体が神様が喜んで下さる事、金光大神もお伝えをして下さって、はあ伝えた甲斐があった、そして必ずそうい実験実証するならばおかげを頂いて今日も有り難いという一日になる事を私は信じます。そういう日々のね、云わば繰り返しでありたい。 どうぞ。